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“안녕하세요(アンニョンハセ)”―10【最終回】
2010年03月17日 15:50 No comments今日は。あんなに寒かったのに、2月末には20℃近くにもなる日が続きました。釜山を代表する名刹梵魚寺(ポモサ)で綺麗な紅梅を目にした時は、確実に春の訪れを実感しました。陰暦の正月15日にあたる2月28日には海雲台の浜辺に行き、新年最初の満月も眺めました。その国の季節を肌で感じ、風習を見ることがその国を理解する一番いい方法ではないかと思っています。それにしてもバンクーバー冬季オリンピックでの韓国勢のパワーはすごかったですね。金妍兒(キム・ヨナ)の完璧な演技は現在の韓国の力を象徴するかのようでした。今シーズン、調子の悪かった浅田真央も何とか2位に入り、まずまずの結果だったと思います。私は安藤美姫を応援していたのですが。
私の釜山での生活も余すところあと僅かとなり、この一年の課題を振り返る時期になりました。初回の「釜山通信」にも記しましたが、今回の私の韓国・釜山での研究テーマは3つありました。一つは日本の栃木県益子から金海進礼に入り、金海窯を立ち上げた合田好道の痕跡を探すことでした。これについては、すでに「釜山通信-7」にて報告しましたので、ここでは割愛しますが、今年、私が進礼に乗り込んで、合田好道のことをいろいろ喧伝したせいか、進礼の陶磁器関係者が金海と日本の焼物交流に関わった人物の足跡、故郷を訪ねるため日本に行き、李参平(金ヶ江三兵衛)の有田はもとより、合田の益子にも足を伸ばす計画を立てた、と語っておりました。今回の研究で進礼における合田のことを十分に研究できたかどうか些か忸怩たるものがありますが、それでも今年2月6日に益子で行われた「合田好道生誕100年記念会」で「合田好道が金海進礼に残したもの」と題した話しができたこと、そして、金海進礼の陶芸関係者に合田を再認識させたことは大いなる成果であったと自負しております。
今一つは、秀吉の戦争により韓国の焼き物が日本へどのように伝わったかというテーマですが、これは、当初考えていたよりも難しく、今後の課題として残りました。まず、秀吉の出兵する前、16世紀中頃に相当する韓国の生活遺跡や窯跡出土の陶磁器を眺めましたが、そのほとんどは白磁でどう見ても柔らかく暖かみのある萩焼、唐津焼などのような雰囲気はありません。遺物の中にある白磁より少し青味がかった灰青沙器と呼ばれる焼物が、日本に影響を与えたものかとも一時思いましたが、どうも違うようでした。日本に大きな影響を与えた朝鮮の焼き物は一体どこにあるのか、いろいろ見ましたが、結局は分かりませんでした。そこで、秀吉の戦争により日本に連れてこられた朝鮮の陶工が作った焼物は十分に日本的な(日本風にアレンジされた)焼物であったのではないか、と思うようになりました。特に、茶の湯で人気の高い「高麗茶碗」の殆どは、朝鮮の人々が日常的に使っていた焼物そのものではなく、茶の湯の器に相応しいように形、色など日本の茶人が注文を出し、朝鮮で作らせたものではないか、韓国で「高麗茶碗」を焼いた窯(江戸時代の対馬の倭館窯ではない)はいくつか見つかっていますが、そうした焼物が朝鮮人の生活の遺跡から出てこないのは、そのためではないかと、考えるようになりました。この実証は今後の大きな課題です。
3つ目のテーマはキムチを漬ける甕に代表される甕器と呼ばれる焼物と祭祀の関係です。勿論、甕器は主に台所用品として液体物の貯蔵、醸造用に使われる容器ですが、それだけでなく、家内祭祀のご神体としても使われ、その管理には女性が関わり、さらにはこうした甕を用いた祭祀は古墳時代にまで遡るのではないか、ということを追究しようと考えていましたが、これも残念ながら、今後の課題として残りました。10月に韓国蔚山で行われるはずの「世界オンギ博覧会」が新型インフルエンザの流行で中止になるなどいろんなことがあり、なかなかに進みませんでしたが、こちらの文献を読んでいて一つ大きなことに気が付きました。それは日本においては甕器を女性や家神信仰と絡めて「ジェンダー」の視点で研究するのに対して、韓国では醸造・醗酵容器としての機能を強調するものが多いということです。儒教思想が今でも根強い韓国では、研究者の性別によりはっきりと研究視点が分かれます。男性研究者の多い韓国では「ジェンダー」の視点そのものが希薄なような印象を受けました。
簡単に今年度の研究を総括すると以上のようになります。そんなこんなで、釜山での生活もまもなく終わります。そこで、この2月下旬に日本から見えた先生ご夫妻に同行した板門店観光の話をして、この「釜山通信」をお開きにしたいと思います。
板門店
板門店観光当日は生憎天気が悪く、もやっていましたが、その分、何か現実味がありました。写真は自由の家の展望台より見た軍事休戦委員会の建物です。イ・ビョンホン、ソン・ガンホ、イ・ヨンエの映画「JSA」に出てきた建物は、この建物ではなく、ソウル市内に作ったセットです。写真の奥にある石組みの建物は北朝鮮側の施設で「板門閣」です。もう一枚の写真は軍事休戦委員会の建物の中から撮った38度線です。これを挟んで南北が対峙している訳ですが、何故か南側は砂利、北側は砂が敷かれていました。写真の角度からお分かりのとおり、私は建物内の38度線を越えて北側にいる事になります。板門店はご存知の通り、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争(韓国では韓国戦争と呼ぶ)の休戦により北緯38度線を目安に設定された軍事休戦ライン上にあります。その軍事休戦ラインの南北2㎞が非武装中立地帯(DMZ)で、ここ板門店にある共同警備区域内の軍事停戦委員会が唯一南北の折衝の場所となっています。板門店「観光」は1965年ごろより始まり、いまや年間7万人を超える観光客が訪れるほど韓国観光の目玉にもなっています。日本の方によく「板門店には行きましたか」と尋ねられるのですが、離散家族や北朝鮮の深刻さを考えると私の見学は所詮「素見し」の域を出ないと思い、なかなか行く気にはなれなかったのですが、しかし、韓国の近・現代史にも些か関心が出て、また私の齢も60を超え自分の生きた時代の歴史をこの目で見ておくのもいいかなと思い、行って見ることにしました。
ソウルのロッテホテルを午前10時半に出発しました。バスは日本語組と英語組の2台に分かれ、その日は合わせて40人程の人が参加しました。板門店に向かう途中、ガイドさんより朝鮮戦争の話を伺い、南北の戦争は未だ終結していない休戦状態にあり、そのため、共同警備区域内や軍事停戦委員会々場での見学上の注意、例えば、鞄、バック、傘を持っての見学は駄目、写真は決められた場所でしか撮れない、北側に向かって指を差してはいけない、しゃがんだり、後ろを振り向いたり、走ったりしてはいけない、歩く時は間をおかず2列になるよう等々、繰り返し注意を受けました。
バスは直接板門店には向かいません。途中、肉弾十勇士忠魂碑や自由の橋を見学してゆきます。朝鮮戦争や南北分断にまつわる記念の場所です。当日は生憎の雨で、吐く息も白く、歌に歌われた臨津江も凍っていました。この後、昼食をとり、共同警備区域の入り口に到着したのは午後2時少し過ぎで、ホテルを出てゆうに4時間は経過していました。ソウルから約100kmなので、直接行けばこれほど時間はかかりませんが、「状況」の変化の有無をその都度その都度確認しながら、少しずつ板門店に向かっているのが分かりました。実は板門店観光はよく中止になります。南北で急遽、会議を開く「状況」が生じると必ず中止となります。ご一緒した先生ご夫妻も、実は今回は2度目のチャレンジで、前回はこの共同警備区域の入り口まで来たが、急遽、「本日の板門店の見学は中止」と告げられ、ここから引き返すことになったとおっしゃっていました。
共同警備区域の入り口では国連軍憲兵(実態は韓国軍兵士)によるパスポートの点検を受けます。着剣した銃は持っていませんが、やはり緊張します。それが終わりいよいよ共同警備区域内に入ります。ほんの数分で国連軍の宿舎やクラブのある区域に着き、ここでホテルから乗ってきたバスを降り、小さな講堂の建物に入って朝鮮戦争に関するレクチャーを受けます。スライドを見ながら日本語、英語で交互に説明するので、何か異様な感じを受けました。話の後に、「今回の板門店ツアーで万一命を落としても責任は請求しない」旨の誓約書にサインをします。実は、板門店観光は北側も行っており、過去に北側の見学者が亡命を求めてこの38度線を越えたため、警備兵が打ち合いとなり、死傷者が出る事件があった、という話しを聞きました。そうしたことなどにより、誓約書を取るようになったのだと思います。レクチャーが終わり、共同警備区域専用のバスに乗り換え、二度目のパスポートチェックを受けます。乗り換えたバスにはホテルからのバスと同じ座席に座らなければならず、顔写真と名簿のチェック、服装のチェックを受けます。緊張は嫌が上にも高まります。それが終わるとようやくにして軍事停戦委員会の建物のある場所に移動します。
朝の雨も上がり、少しもやが立ち込め、視界は500m程ですか、遠くの林がかすんでいました。軍事停戦委員会の建物まで5分ぐらいですが、途中、目の前に刈り取られた稲株の残る田圃が広がりました。兵士が耕しているのかなと思いましたが、実はこの共同警備区域内にある大成村に住む農民が耕している田圃で、代々ここに暮らしていた農民がこの地を離れがたく、居住を認めているとのことでした。ただし、夜間外出禁止など生活上の規制が多く、不自由なので税は免除され、年収は日本円で1500万程になり、「韓国で一番豊かな農村」だそうです。北への宣伝の意味もあるのでしょう。
北と接する軍事停戦委員会の建物は38度線上に建っており、南側(韓国側)には北朝鮮の動きを見る自由の家、離散家族の面会に使う平和の家があります。まず、自由の家の展望台に登ると、映画「JSA」にも出てきた薄水色の軍事停戦委員会の建物が数棟見えました。写真で何度も見たことのある平家のあの建物です。建物の外には南北を分ける幅50cmのコンクリートで出来た「38度線」が見えました。思わず「あれが38度線ですか」と先ほどの注意も忘れて指を差しかけたら、ガイドさんがすかさず私の手を掴んで「指を差してはいけません」と諭してくれました。誰かがしゃがんで写真を撮ろうとしたら、これもまた「しゃがんではいけません」と注意を受けていました。軍事停戦委員会の建物の向こう側はすでに北朝鮮です。そこには北朝鮮側の施設「板門閣」が建っており、こうした僅かな動きが気になったのか玄関の脇に立つ北朝鮮の兵士が双眼鏡で我々を見ていました。
自由の家からの見学を終え、2列になって次はいよいよ38度戦を跨ぐ軍事停戦委員会の建物に向かいます。見学が許されているのは韓国側の警備する時間帯だけで、建物の中には、1人の兵士は38度線を跨ぐ形で、もう1人の兵士は奥の北朝鮮側の出口の傍に立っていました。勿論、身じろぎもせず、一点を見据えたままです。建物内は38度線を越えて自由に行き来でき、「観光」客は緊張の中にも貴重な時間を少しでも多く写真に刻もうとシャッターを切っていました。一番の写真スポットは兵士と並んで撮るところで、勿論私も撮りました。ガラス越しに建物の外を見ると38度線の境界があり、何故か北の敷地には砂、南には砂利が敷かれていました。ひとしきり写真を撮り見学時間が終ると、また再び2列になって退室します。このとき、決して後ろ(北朝鮮側)を振り向いてはならない、走ってはいけない、と注意がありました。さすがにこれは皆守っていましたが、日常の何気ないありふれた行為が非日常の世界では誤解(間違った情報)を与えるということです。
これで、板門店観光は基本的に終了ですが、軍事停戦委員会の建物から戻る途中で「お土産」屋に寄ります。「少し観光化しているな」と感じましたが、緊張を和らげてくれるにはよいアイデアかもしれません。帰りのバスでは居眠りする人が多くいました。おそらく緊張から開放され、神経が弛緩して眠くなったのでしょう。それにしても貴重な見学をすることが出来ました。この板門店観光は外国人だけに許されており、韓国人は参加できません。余りにも北に近く、離散家族のことを思って胸が騒ぎ、理性を失って北に走る人が出るのを避けるためだと聞きました。それに代わり、韓国人が北を望める展望台が韓国には3つあります。その一つが本庄学院の修学旅行でも行く、板門店の近くにあるオドゥサン展望台です。一昨年修学旅行で訪れた時は、自転車に乗る北の兵士の姿が見られました。
米ソの冷戦構造が解体して20年が経ちますが、ここだけはいまだに緊張したままです。ガイドさんの言葉ではないですが、同じ伝統文化を持ち、言語を話す民族が分断されたままになっているのはここだけです。2001年、金大中と金正日が会談し、南北を縦断する鉄道(京義線、南のソウルと北の新義州を結ぶ)を開通する計画が語られ、韓国側は最北のトラサン駅まで整備しましたが、北にはまだ入れない状態です。もし、この鉄道が通じれば、南北間だけでなく、釜山から朝鮮半島を縦断し、ユーラシア大陸を横断してヨーロッパに通ずる世界最長の鉄道が生まれます。私の生きている間に可能かどうか、離散家族、韓国人の心情を思うと、一日も早い統一を希求してやみません。
私の「釜山通信」もこの10回目で最終となります。昨年3月末に通信をお引き受けした時は、月1回のペースで12回程度を予定しておりましたが、諸般の事情で10回となりました。この1年の間、拙い「通信」を御覧いただいた多くの方々、また編集された委員の方々には心より御礼申し上げます。共学初の卒業式も終わり、また4月から新学期が始まり、私は本庄学院に復帰します。季節の移ろいの早さを実感しています。復帰後は加齢も手伝ってしばらくは「浦島太郎」状態が続くでしょうが、ぼちぼち心と体を慣らしていく所存でおります。よろしくお願い申し上げます。何はともあれこの一年どうも有り難うございました。(去牛 100320)
タルマチ
韓国では旧暦1月15日の満月を愛でる風習があります。釜山ではいくつかの浜辺で、大きな松の木を組み立て、願い事を書いた紙を吊るし、天に届くように火をつけて燃やします。写真は海雲台の海岸で行われたタルマチの行事で、まだ、火をつける前に、大きな月が丘の上に上がりました。はじめ月が出たのに気がつきませんでしたが、歓声が上がり、不図見ると赤々とした大きな月でした。この後、点火となり、大きな松の木が燃え盛っていきます。この後、満月の下で、女性たちが輪になって踊りを始めました。日本の1月15日のドント祭との類似を指摘する意見もあります。浜辺で行われるので、漁民の風習かとも思いましたが、女性が主役のようで、いわゆる日本で言う女正月に当たるのかとも思っています。この日の前日は曇天、翌日は雨で、まさにラッキーでした。雪の釜山
暖かかった2月とはうって変わり、3月に入りると少し寒くなり、3月10日、韓国全土で雪が降りました。前日から雨が降り、もう天気が回復するかなと思っていたら、博物館の方が「明日は雪ですよ」といったので、まさかと思いましたが、翌日起きて外を見たら一面の銀世界でした。いつもは車が出勤する人々が地下鉄に殺到して、交通網はずたずたで、この日は大変な一日でした。博物館の職員の方も昼近くになって出勤されました。そのかわり大学構内は人も少なく、静かで、博物館の雪景色もなかなかなかいいかなと思い写真を撮りました。もともと雪の降らない釜山に、しかも3月に雪が降るのはここ数年の傾向ということです。地球温暖化に伴う気候変動の現われでしょうか。済州島の茶畑
韓国では近年喫茶の習慣が復活し、茶の需要が高まってきました。韓国の喫茶文化は単なる嗜好としてはなく、儀礼的な要素を持っています。これを「茶礼」といいます。韓国のお茶の栽培は日本と同様暖かい地域でしか出来ません。韓国本土では智異山周辺、島嶼部では済州島が有名です。3月半ばに済州島に行き、茶畑を経営する会社の博物館を見てきました。博物館の周辺は全面、茶畑です。茶畑の中で茶の木に接近して写真を取っている人がいたので、近づいてみたら、なんと白い茶の花が咲いていました。茶の花は見るのも、聞くのも初めてで、大変貴重なものを見せていただきました。この後、韓国の煎茶をいただいたのですが、日本のお茶に比べて色と味が薄く、お湯を飲んでいる感じでしたが、ただ、香りは幾分強く、喫茶一つをとっても民族の趣向の違いを感じました。Leave a reply


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